蔵人は原家の3男として安永6年(1777)に誕生。先に寺島家の養子となって次男が29歳で早死にしたため、蔵人が後を継いで寺島家を相続することになった。
若い頃から勉強家だった蔵人は、享和3年(1803)から高岡町奉行を務めたあとに、農政をつかさどる改作奉行、資金調達を行う大坂御借財仕法主付に命じられ、藩の借財交渉に奔走した。しかし年寄らの了承なしに米切手(米の預かり証)を相手に渡したことから免職。これがきっかけで蔵人は年寄の政治に対する不信感を募らせるようになった。
その後、横目(藩士の行動を監視、藩主に報告する役目)に任命され、教諭方(藩政改革のための親政機関の一員)に登用されたが、藩の方針変更により罷免となった。正義感が強かった蔵人は重臣の政治に対する批判を日増しに強めていった。誰にでも平等に接する優しい蔵人の性格も伴って、城下には彼の同調者も増加。藩政の実権を握っていた年寄はこれに危機感をもち、蔵人に能登島の流刑を言い渡した。
そして流刑者としての生活が4ヵ月過ぎたころ、蔵人は61歳でその生涯を閉じている。また蔵人は応養(おうよう)や王梁元(おうりょうげん)の名で画人としても活躍したという一面もあり、多彩な才能に恵まれた人物であったといえる。 |